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学生たちと行く無言館・俳句弾圧不忘の碑への旅      2018.3.7.-3.8.

信州・上田の無言館(戦没画学生慰霊美術館)を若い友人たちと訪れることは、ぼくがかねてより温めていた計画だったが、手を挙げてくれた6人の若者たち(5人の大学生に、高校生が1人)と、やっとその旅が実現した。

 

無言館近くの槐多庵敷地に「俳句弾圧不忘の碑」を建てたフランス人マブソン・ローランさんと会うという、心躍る新たな目的が今年に入り加わったが、マブソンさんとともに碑の建立に関わった俳人・金子兜太さんが、碑の除幕式を目前にして亡くなるという悲しい出来事があったり、夭折した天才画家たちの作品を集めて、無言館とは分かちがたく結びつく存在だった、愛おしい信濃デッサン館が、急遽この3月15日で閉じられることになったという衝撃的な話を、電話口で窪島誠一郎さんから聞かされたりということが続き、複雑な思いが交錯するなかでの旅となった。

 

 

3月7日、上田駅からローカル線に乗る改札前で、長野から来たマブソンさんと合流し、その電車の中でも、また塩田町の駅を降り無言館へと向かう30分ほどの田舎道を歩く間にも、マブソンさんはさっき会ったばかりとはまるで思えない人なつこさで、立て板に水のように流暢な日本語で話し続ける。若者たちも、互いに初対面の人が多かったのに、マブソンさんのペースにみるみる巻き込まれ、早春の道に笑い声があふれる。

 

 

 

小高い山の上の無言館に着き、なかに一歩入ると、静まり返りひんやりと冷たい空気に満たされた空間に、70年以上前の学生たちが、恋人や家族や故郷の風景を描いた絵が、静かに並んでいる。さっきまでのはじけるような笑い声は止み、みなそれぞれに、絵を描いた若者たちのことに思いを巡らせながら、思い思いの時間を過ごす。

 

ぼくがこの画学生たちと向き合ったあの東京藝大での集会からも、もうすぐ2年になる。《画学生たちからの伝言》という集会のタイトルに、どうしても「憲法9条70年」というサブタイトルをつけないわけにはいかなかった。政府が再び戦争に向かい、なし崩し的にさまざまな法律を改変し出している昨今の情勢を考えると、「いま耳をすます」というタイトルも必要だった。「憲法9条70年《画学生たちからの伝言》いま耳をすます」。70年前の戦争で失われた若い命と、その一人一人に確かにあったかけがえのない人生や夢や希望を思い描きながら、あの時、無言館の絵と向き合い、学芸員にお願いしてガラスケースの遺品や日記を取り出してもらっては、集会に使うスライド用に撮影させてもらった。藝大に残る記録から、スライド用に一人一人入力した数百人の名前と専攻名、没年と死亡した場所。延々と続いた作業の記憶が、改めてよみがえる。この若者たちの命と引きかえに作られた憲法9条を、いま骨抜きにしようとする政府の企みを、絶対に許すわけにはいかない。


無言館を見終えて明るい外に出ると、山道をこちらに登ってくるマブソンさんが遠くに見えた。ぼくたちは再び合流して、信濃デッサン館のカフェで遅い昼食をとり、ほんとうにこれがもう見納めになるのかという信じられない思いで、デッサン館の作品たちとのしばしの別れを惜しんだ。


その後「俳句弾圧不忘の碑」と、その隣りの「檻の俳句館」を、マブソンさん自身に案内してもらった。季語にも五七五の定型にすらもこだわらない自由俳句という自由な表現を追求し、戦争への批判精神を込め作った句が咎められ、多くの俳人らが治安維持法違反のかどで逮捕され、過酷な拷問を受けた。その少なからぬ部分が、京大俳句などの雑誌に集う大学生たちだったというマブソンさんの話に、ぼくの中で、無言館の画学生たちと、弾圧された若い俳人たちが、一本の線となりつながる。日本の「レジスタンス俳句」に愛情を注ぎ、研究に打ち込んできたマブソンさんによる、ほとばしるような熱のこもった語り口に、全身を耳にして聞き入る若者たち。98歳で金子兜太さんが亡くなった今、この不忘の碑の前に、次の時代を生きる若者たちが立ち、マブソンさんの話に耳を傾けているという、この情景に、ぼくは深く胸を揺り動かされていた。ほんとうに素晴らしい時間だった。

 

槐多庵では受付の番をしていた窪島誠一郎さんとも会った。たまたま憲法特集での取材に来ていた信濃毎日新聞の記者から、若者たちがインタビューを受けた。窪島さんとともに全国に散らばる戦没学生の遺族を一軒一軒探して歩き、遺作を集めたというあの野見山暁治先生の特別展示も見ることができた。閉館時間を過ぎた槐多庵を追い出されるようにして、ぼくたちは窪島さんやマブソンさんと別れ、タクシーを待つ短い間、「檻の俳句館」入り口に置かれた平和の投句箱に、若者たち全員が平和への思いを俳句にしたためて投じ、この日の長いプログラムを終えた。

 

その夜、別所温泉の宿で夕食の膳を囲んでいた時、「投句箱に投函した句を、順番に教えっこしようよ」とぼくが冗談めかして提案したら、驚いたことにほんとうに全員が、誰一人悪びれることなく、自分の句を一句ずつ披露して、その句に込めた思いまでも語って聞かせてくれた。「こんなにいい話、録音してちゃんと記録しておきたいから、もう一度聞かせてよ」とこれまた冗談めかして言ったら、今度は逆回りにほんとうに全員がもう一度話し直してくれた。無言館の絵を詠んだ句。それを現代の自分たちが描く絵に重ねて眺めた句。アウシュヴィッツへの旅から帰ったばかりの学生は、その時の気持ちを詠んだ句を披露した。それぞれの句に対する感想や意見が自由に飛び交い、笑い声がはじけた。司会も式次第もなく、参加者全員が、誰に求められるわけでもなく、銘々の心に思ったことを伸びやかに語り合う、こんな素敵な平和集会は初めてだった。ぼく一人だけがうんうんうなっているうちにタクシーが来てしまい、紹介できる句が一つもなかったので、「川嶋さん、ずるいずるい」とみんなにはやし立てられた。

 

 

翌朝、別所温泉で土地の人が守り通した山本宣治の碑をみんなで見に行った。戦前、人々の自由な言論表現活動を弾圧した治安維持法に、最高刑死刑を導入する法改正がはかられようとした時、当時の帝国議会でただひとり反対演説を準備して、右翼に刺殺された山本宣治。「山宣独り孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には多くの大衆が支持しているから」という京都宇治に残る碑が有名だが、別所温泉の碑には、山宣の生物学者としての一面を物語る彼の座右の銘がラテン語で刻まれている。「人生は短く、科学は永い」。山宣の死を境とするように、その後、治安維持法は猛威を振るい、日本は戦争の坂道を転げ落ちていく。「無言館」「俳句弾圧不忘の碑」とあわせ、どうしてもこの碑はみんなに見て欲しかった。(2018年3月9日、H.K.)

 

▲別所温泉・常楽寺の猫


クリエーターが無償の仕事を受け続ける事はartの衰退を招く

(このブログ記事は「自由と平和のための東京藝術大学有志の会」に2018.1-2 期間限定で活動に参加した個人が、活動を通じて得た、個人の思いを綴ったエッセイです)

 

   

音楽の世界であれ美術の世界であれ、クリエーターが創作活動を続けて行く上で必要最低限守られるべきこととは何か。

  

 

創作活動の上で、無償の仕事を受け続けることの弊害について考えたい。

 

 

クリエーターとって必要最低限必要なこととは、自分の創作活動の枠や活動内容を自らの手法で説明出来、そこに発生する著作権の内容や使用範疇、活動の上で必要な事柄を理解し、創作活動における「有償」と「無償」の違いを理解し、これらを創作活動の上で生かすことができることだと思う。

 

 

 

創作活動をするうえでの必要最低限の枠とは、(基本的にはその著作権の譲渡は行わず)使用範囲や使用方法などを、仕事を発注する人との話し合いの上、創作物の使用の範疇、どんな使われ方をどういった媒体で使用するか、など用途や使用範囲、内容などを定めて創作物の使用についての一切を確認し、さらに著作権を譲渡する(受取手が「作品」を買い取る)場合は、話し合いの上、その内容に見合った相応の契約が発生する、こういった一連の流れの理解と実践ができるという事である。

  

 

いっぽう、複製技術の発達した現在、インターネットの動画サイトやフリー素材サイトなど、無料で閲覧やダウンロードが可能な創造作品の複写などが沢山みられるようになっている。

 

 

音楽や美術が「無料で」「お手軽に」「誰もが」閲覧・試聴でき、その行為に料金が発生することもなく、スマホやパソコンで個人が気軽に創作物を享受できるようになっている。

 

 

受取手にとっては、artにお金をかけるという意識そのものが薄れている。プロの音楽家のコンサート会場にわざわざ出掛けてお金を払うことなどしなくとも、無料動画サイトで音楽を楽しめればそれで良し、と考える人が増えたり、イラストやweb素材などはインターネットの「フリー素材集」のダウンロードで事足りる、わざわざクリエーターに仕事を発注しなくても用は済むと考えるインターネットユーザーが増えて来るのも、ごく当然の流れになっている。

 

 

自分は創作活動のプロであると名乗っている人の中には、「ボランティア(無償の仕事)」は一切受けない、とする人も多い。というより、そもそも、本来プロは無償の仕事や格安料金の仕事は受けるべきものではない、と私は思う。もし受ける場合は、普段の仕事と無償や格安の仕事とがどのように異なるのか、例えばチャリティであればどういったことを目的としているのか、期間や内容が限定であるか等をはっきり定め公表し、有償・無償の違いを区別する事が必要不可欠だと思う。

 

そうでないと、自分の活動の範疇が曖昧になり、こういった世の事情の中のなかでわざわざ自分を選び仕事として発注して頂いたクライアントの方々や、自分の創作活動の理解を頂いている方々などに対しても、大変失礼で不公平なことをしていることにあたるではないか。 

 

コピー制作物の蔓延した現在、クリエーターが創作活動で報酬を得るのには大変な労力がいる。つねに無料サイトの「作品」と自分の創作物(あるいは演奏等の創作活動など)との比較をされ、苦労して作成した創作物、創作活動より「フリー素材」の方が出来がいい、と評価されてしまえば、artを仕事として受ける場そのものが狭まってしまう。

   

「有志の会」では、様々な形でartと社会の関わりについて活動を行っている。学生との交流を前提として様々な立場のクリエーターも数多く参加している。

 

以上の問題は学生の場合も同様である。学生だからタダで仕事をしろ、一方プロはお金を得て良い、などどいう事などもまた決してない。学生・社会人、またはプロ・アマチュアの別にかかわらず、その活動にかかわる労力が発生した場合は、内容に見合った作業料金なり加工代金なりが発生するのはごく当然の事である。教育的配慮の必要な場だからお金の話をしてはいけない、という空気が暗黙の了解にあり、artにかかわるものはお金の話なんかしないものだという圧力的な雰囲気が生まれている。そうではなく、これが教育的配慮の必要な場であれば(営利を目的としない活動に限る、など場に制限がある場合なども)なおさら、暗黙の了解で無償仕事を強いる構図を作ってはいけないと思う。

 

 

私はこれまでに、当有志の会とは別の、営利を目的としない「Aの会」有償ボランティアを、期間や内容を定めて広報物作成という仕事として受けさせて頂いた経験がある。Aの会では、2003年から10年以上にわたって、その地域に住む人たちが「九条について考えよう」というテーマで集まり、数年に一度の割合で文化人の講演会やコンサート、交流会など様々な活動を行っていた。このなかで広報物制作を担当させて頂いた。その全ては計画的に準備し有償だった。チラシや広報物、看板や封筒の印刷代、チケット版下代金、その他もろものについて、また、自分が作業しきれないもの(たとえばブラックのロゴ作成等)が出て来た場合など、見積書や作業伝票を作成の上、知人に制作を業務委託という形でお願いし、それについても有償で行われた。この実例からわかるように、営利を目的としない文化活動だから無償でないとできない、お金の話なんかするものじゃない、などということなど決してない。

 

 

例えばデザイナーのプロが安易に無償の仕事を受けてしまうと、デザインの仕事を今後生業にしたいと希望を持って真剣に学んでいる学生の方々にたいしても、間近に負の連鎖をみせつけることになり、とても良くない事だと思う。様々な文化活動を、学生と社会人、プロとアマチュアなど、立場の違う人たち同志で協同して行う場合には、なおさらこういったお金の問題を、きちんと話し合って定め行う必要があると思う。

 

 

クリエーターが自分の仕事の枠をないがしろにして、無償の仕事を受け続ける、ということは、苦労して築いている自分たちの活動の場をわざわざ自らおびやかすことにつながり、ひいてはartの衰退につながると思う。

 

 

 

(ペンネーム・猫の手)

  


《芸術と憲法を考える連続講座》 第1回 報告

この12月18日にスタートした自由と平和のための東京藝術大学有志の会による《芸術と憲法を考える連続講座》。オープニング企画となったのは、作家・中島京子さんと神奈川新聞記者・田崎基さんによるクロストーク『どうなるの?表現の自由と憲法』

衆参両院で改憲勢力が三分の二超を占め、立憲主義のもとで本来憲法に縛られるはずの政権が、憲法上の規定をことごとく無視して乱暴な国会運営をおこない(もしくは国会の存在そのものを軽んじる行為を繰り返し)、まるでタガがはずれたように改憲推進に前のめりに走り出している。今やいつ改憲発議がおこなわれてもおかしくない、という現状認識のもと、緊急企画として、きわめて短い準備期間で奇跡的に実現した企画だった。これからも毎月1回、芸術と憲法をさまざまな角度から考える講座をおこなっていく計画。

 

田崎記者の基調報告では、今年6月、安倍政権がさまざまな禁じ手を駆使し、委員会採決すら省略して強行成立させた「共謀罪法」が、日本の刑法体系を基礎づける「既遂処罰」の大原則を覆し、盗聴や密告、他人を陥れる監視社会をまねき、芸術や言論活動の基本である「表現の自由」にとっても深刻な萎縮効果をもたらす危険を指摘。その上で、安倍政権が発足以来着々と積み上げてきた教育基本法改悪、特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認の閣議決定、安全保障関連法や共謀罪法のあい次ぐ強行採決へと続く流れを、個々の点ではなく、線としてとらえ、今進められている首相と自民党主導による改憲論議が、その先にどのような社会を作ることを意図しているかに思いをめぐらせることが重要だという。

 

最速のシナリオでは、来年度予算が国会を通過する2018年春以降に改憲発議が行われ、10月頃にも国民投票となる可能性も否定できない(聴衆のあいだにうめき声のようなどよめき...)。危険きわまりないこの改憲を阻止するためには、改憲発議をとめる運動も大事だが、国会の勢力図を考えれば、改憲発議後の国民投票で、憲法に対するさまざまな考えやスタンスの違いを超え、「安倍改憲には反対」で一致できる多数派を形成するための運動に、今すぐ全力で着手することが急務である。自分の周囲の狭い世界に閉じこもることなく、一歩を踏み出して自分のことばで憲法を語り、草の根の運動を短期間にどれだけ広げることができるかが問われている、というお話だった。「安倍改憲」の論点整理や、その出どころとなっている日本会議系の右翼思想の系譜にふれる話も、たいへん勉強になった。

 

若い田崎さんの話は、その内容の深刻さにもかかわらず、たくみなテンポとユーモアを交えて、会場は何度も笑いに包まれた。そこに、しなやかな視点と庶民感覚で相づちを打ったり、文学者ならではのコメントを投げたりしてくれる「ユーモア作家」中島京子さんの存在が、じつにありがたかった。

 

中島さんは、雑誌編集部の政治的な忖度により自身のエッセイが連載中止に追い込まれた2012年韓国での体験を語り、「その当時、日本ではそんなことは起きないと思っていた。でも時が流れて、何が起こったかというと、韓国の国民はパク・クネ政権を倒し、新しい大統領を選んだ。一方で今の日本で安倍政権のあり方と国じゅうをとりまく時代の空気を考えた時に、私は考え込んでしまうところがある」として、言論表現の萎縮が続く今の日本社会に関して、政治テーマを扱って連載が打ち切られたある漫画の事例を紹介。そこに何らかの政治的圧力がはたらいたのか、または編集部がそれを忖度したのかもわからない。しかし「何かはそのようにしてはじまってしまう。だからそれは起こり始めたらほんとうに気をつけなきゃいけない。でも韓国の事例を参考にして言うなら、市民はそうした奇妙な圧力のある社会を正常なものに変えることができる。そのための市民の武器になるのが、人権や表現の自由について書かれている憲法だと私は思っている。」

 

 

《芸術と憲法を考える連続講座》の滑り出し。オープニング企画はおおよそこんな内容だったと思う。これからしばらくは毎月一度の講座を企画し、走り続けていく。憲法とは何か、表現の自由はなぜ守られねばならないのか、東京藝大という場にふさわしい学びと語りあいの場としていきたい。(2017年12月23日、H.K.)

中島京子さん(作家)VS 田崎基さん(ジャーナリスト),

中島京子さん(作家)VS 田崎基さん(ジャーナリスト)のクロストーク形式で進められた連続講座オープニング会場は、内容の深刻さにもかかわらず、2人の演者のたくみなテンポとユーモアに惹き込まれ何度も笑いに包まれた。

 

自民党が進める改憲の国民投票が2018年10月だと知り、会場が騒然とする場面も。



《芸術と憲法を考える連続講座》ポスター貼りをしていたら

《芸術と憲法を考える連続講座》のポスターを学内に貼り歩いていた。学食横の掲示板に向かい、若干あたふたしながら作業していたところに、ちょうど中から出てきた美術4年の女子学生。「先生、わたし、無事卒業できることになりました。卒論も提出できて」と、普段あまり感情を表に現さない彼女が、小さな声で嬉しそうに教えてくれる。「へえ、それはよかった。おめでとう」と言うと、次にいきなり、「先生はどうしていつもそんなに大変そうに頑張ってるんですか?」ときょとんとした顔で訊いてくる。いつもひとり何かを考えている風の、マイペースの女の子。それでも去年は戦没画学生をテーマにしたぼくたちの集会に、足を運んでくれた。「え、ぼくそんなに大変そうに見える?」とすこし反省しつつ、ぼくは何か答えようとしたのだが、そんなぼくにはお構いなく、矢継ぎ早に投げられる次なる質問。「先生、ひとは何のために学ぶのでしょう?先生はなぜ学ぶんですか?」うわ、いきなり直球だ。


「うーん、それはずいぶんむつかしい質問だなあ。やっぱり世界にいろいろむつかしい問題があるなかで、どうすればその問題は解決出来るんだろう、自分はこの世界でどう生きていけばいいんだろうって答を探すために、人は学ぶんじゃないだろうか。それは机の上での勉強だけじゃない。頭で考えているだけじゃなく、答を探す過程で、人は行動もしていかなくちゃならない。行動しながら学び、学びながら考え、自分の生き方を探していく、その全体が、人にとっての生きるということだし、学ぶということなんだと思う。今、こうしてぼくが大変そうにポスター貼りをしているのだって、日本が再び戦争への道を繰り返そうとしているんじゃないかっていう思いに駆り立てられて、とてもじっとはしていられない、していちゃいけないという思いと、ではそれを解決するために、何を学び、どう行動すればいいんだろうと考えた末に、この連続講座をすることにしたわけなんだ。その行動にともなういろいろな苦労もすべてひっくるめてが、ぼくの学びであり、生きるってことだと思うんだ。迷いながらも、とりあえず動きながら、走りながら、学んでいこうってぼくは思っているよ。」

とっさのことで、こんなことを立ち話で話している自分に、内心苦笑する。「わたしまだ就職が決まらなくて、いま本屋さんと面接してるところなんです。講座、行けたら行きますね」と言って、彼女は歩いて行った。

近所の胃腸科に先週の検査結果をもらいに行った足で、9色のガーデンシクラメンをポット苗で買って帰り、寄せ植えにした。冷え切った冬の庭が、ぱっと明るくなる。胃は全然問題なし。(2017年12月10日、H.K.)

僕たちは戦争に行かない

これは2014年に 有志メンバーがFacebookに投稿した文章です。

憲法9条の在り方を問うこの訴えが、私たち有志の会の始まりと言っても過言ではありません。

7月10日の参院選を前に、改めてブログとして転載します。どうか一緒に考えて下さい。

 

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あるプライベートなオペラ鑑賞ツアーで、通訳のアルバイトをした。毎晩、豪華なホテルに泊まってバイロイトやザルツブルクの音楽祭を巡り、食事の席にもご一緒した。その席上、メンバーのひとりだったある政財界の大物(そのグループはそういう方々の集まりだった)が大きな声で話したことが、今も耳に焼きついて離れない。

「そろそろどこかで戦争でも起きてくれないことには、日本経済も立ちゆかなくなってきますなあ。さすがに日本の国土でどんぱちやられたのではたまらないから、私はインドあたりで戦争が起きてくれれば、我が国としては一番有り難い展開になると思ってますよ。」ここまでえげつない戦争待望論には、周囲にいた人達もちょっとびっくりしたらしく、一同目を見合わせ、隣りにいたご夫人が「またあなたそんなことをおっしゃって、、、」ととりなしている。「かわしま君、きみたち若い人の意見を聞こうじゃないか」と、ご本人が話をぼくに振ってきた。言いたいことは山ほどあったけれど、アルバイト中のぼくには、面と向かって彼に反駁することもできず、言葉を濁してしまった。今思うと、通訳のアルバイトなんか棒に振ってでも、彼にしっかり反論しておくべきだったと思う。権力の中枢近くにいるひとに直接ものを言う絶好のチャンスだったのに。もう10年以上昔の話。

集団的自衛権行使容認の閣議決定(7月1日)。この暴挙を安倍首相が進めるにあたって、議論を先導した首相の私的諮問機関・安保法制懇のメンバーに、あの発言をされた方が入っている。安倍首相のブレーンの一人と言われ、さまざまな政府委員も務めておられる有力者だ。「国民の安全を守るため」とか、「海外の戦争に参戦することは絶対にない」とか、夕べの会見で首相は言っていたが、民主主義の手順も無視して強引にことを進めるこの内閣の本当の目的が、そんなところにないことは、法制懇のこの顔ぶれを見ても明らかだ。背後には死の商人がいる。彼らは戦争でひと儲けしたいのだ。

政府は、歴代政府が守ってきた武器輸出三原則をこの春の閣議決定で撤廃し、武器の輸出推進政策に転じたのに続き、つい二週間ほど前には国内軍需産業を強化・育成するための「防衛生産・技術基盤戦略」なるものも決めた。軍需産業が、大学や研究機関と連携して国の進める軍事政策に協力する体制を、平時から強化しておくのがねらいで、大学や研究機関への圧力や働きかけが早くも強まっていると聞く。秘密保護法が成立し、集団的自衛権行使容認の閣議決定で、憲法9条も風前の灯(すでに死文と言えるのかもしれない)と化した今、国民に知られたくない重要なことは次々と機密指定にしてしまえば、ぼく達のあずかり知らぬところで、海外で戦争を始める準備はどんどん進んでいく。ほんとうに恐ろしい内閣に、国民は絶対多数のフリーハンドを与えてしまった。

ドイツのヒトラー政権にも並ぶこの暴走内閣をはやく退陣に追い込まなくては、日本は大変なことになる。平和憲法のもつ重みを、国民一人一人が、心からかみしめられる日を、もう一度取り返さなくてはならない。若者たちが総じて無関心、もしくは無行動なのがいちばん気になるところだ。次は徴兵制だと、死の商人たちが言い出すことは、火を見るより明らかなのだから、手遅れになる前に、何をおいても今、ぼく達は動かなくてはならない。(2014年7月2日、H.K)

 

 

 


谷中ボッサ

 

「戦争法廃止のチラシを置かせてもらうなら、先生、大学の近くにいいお店がありますよ」

と、聞き慣れない店の名を学生が耳打ちしてくれたのは、去年11月。せっかく教えてもらってあったのに、自分で行くのはちょっと勇気が出ず、仕事にかまけ延ばし延ばしになっていた。

 

そのお店「谷中ボッサ」のほうからおとといの夜遅くメールが届いてしまったのだから、びっくりだ。

 

 

「近所でカフェを営んでいますので、貴会のフライヤーをいつでも、よろこんで設置させていただきます。50部ほど、送料がもったいないので、通りすがりにでもお持ちいただければと思います。

明日夜は国会前に行きたいと思います。」

 

あわてて昨日、お店を訪ねたら、定休日で人が居ず、チラシは緑色のポストに入れてきた。

入り口の扉の張り紙には大いにたまげた。

国会前に抗議行動に行く人たちに、実に耳寄りな情報。

もっと早くに知っていれば!

谷中ボッサ!

 

 

憲法を踏み躙る戦争法の施行に抗議する幾万の人々が、夜の国会前で遅くまで声をあげ続けた。

街頭署名からのハシゴで、病み上がりの身に、長時間のシュプレヒコールはいささかキツかったが、

日本が戦争国家に向かって大きな一歩を踏み出した昨日ばかりは、

満身の怒りを込め、声をあげずにはいられなかった。

 

谷中ボッサはお休みだったので、魔法瓶入りの熱いコーヒーはなかったのだけれど。

  

                                         H.K. wrote

 

お店、演奏会場、ギャラリーなどに「藝大有志の会」の署名チラシを置いてくださる方、

ご連絡くだされば郵送しています。→自由と平和のための東京藝術大学有志の会 お問い合わせページ

 

2000万人署名と同時平行で、藝大有志が集める独自の賛同署名。

ぼくたちの命と言論表現の自由を脅かす戦争法に、ぼくたちはNOの声をあげ続ける。

賛同署名は先週1500名を突破した。

 


ちひろさんの切手と てるよさんのファックス

いわさきちひろさんの切手が出たので、郵便局で10シート買って帰る。筆無精のぼくがこんなにたくさん切手を買ったら、一生分の手紙に足りてしまうんじゃなかろうかと思うが、作曲家の徳山さんにさいわい手紙を書く必要があったので、最初の1枚を早速切り取って使った。


ちひろさんが亡くなった年の秋のことだったかと思うが、銀座の小さな画廊で回顧展があるというので、出かけた。「子どもがこんな町中の画廊に一人で来るなんて」と、画廊主のおばさんに驚かれた。絵本「戦火のなかの子どもたち」や「母さんはおるす」の原画、モスクワの風景スケッチなどが飾られていたと思う。小さな画廊の部屋を何周も歩きまわって、初めて見るちひろさん直筆のやわらかな鉛筆の線に食い入るように見入りながら、まるで母親のように、水か空気のように、子どもの頃からいつも身近にあって馴れ親しんだこの絵本画家との別れを、中学1年生だったぼくは惜しんだ。

ひろさんの回顧展のあとしばらくたってから、同じ画廊で遠藤てるよさんの『ベトナムのダーちゃん展』があり、中学生のぼくのところにも、画廊主のおばさんはちゃんと案内の葉書きをくれた。ちょっと誇らしい気持ちで、それからぼくは「はばたき」という名のその画廊によく通うようになった。ちひろさんは亡くなってしまったけれど、絵本画家遠藤てるよさんとのつきあいが始まったのは、その時からのことだ。

おととい、「自由と平和のための東京藝術大学有志の会」の事務局のファックス(実はぼくの自宅のファックス)に、永く音信が途絶えていたその人から安保法制廃止を求める署名がファックスされてきた。やさしく踊るような遠藤てるよさんの懐かしい筆跡に驚いた。さっそくお電話をかけ、ぼくの筆無精を詫び、久しぶりの電話はずいぶん長話になった。有志の会の呼びかけ人連名にぼくの名があるのを見て、「あの川嶋くんだ」とすぐにわかり署名してくださったのだという。85歳のお元気そうな声に、ほっとひと安心した。

有志の会の呼びかけ人には、ちひろさんの息子の松本猛さんも名を連ねてくれているし、こうして遠藤さんとも再びつながることが出来た。今日はちひろさんの親友だった亡き東本つねさんの娘さんという人からもメールが届き、驚いた。娘さんは藝大のご卒業で、安倍政権の暴走に危機感をもち、藝大署名を一生懸命周囲にひろめてくださっているそうだ。

ちひろさんが亡くなる前、ベトナム戦争はまだ続いていて、沖縄の米軍基地から戦闘機が飛び立ち、ベトナムの子どもたちの上に爆弾の雨を降らせていた。ちひろさんを始め、子どもの本の仕事をしている人たちはそのことに心を痛め、手をとりあって大きな平和運動のうねりを日本じゅうで起こしていた。遠藤てるよさんも、東本つねさんも、そうした絵本画家のひとりだ。その頃の空気を、ぼくも子どもながらに感じ、自分のなかに受け継いでいるのだと思う。ちひろさんの息子猛さんも、メールをくれた東本さんの娘さんも、ぼくと同じくあの時代の空気を受け継ぐ世代といっていい。

「ぼくが今、何かせずにはいられずこうしているのも、出発点はあの頃の、さまざまな出会いの中にあったのかもしれないと思ってます。ちひろさんやてるよさん達の絵本を見てぼくたちは育ったんですから。悲惨な戦争への道を二度と許しちゃいけないって思いを、ぼくたちはそこから受け継いで育ったんですよ」と、受話器の向こうの遠藤さんに、ぼくは話した。

ちひろさんの切手は、大切に使いたい。

                                       H.K. wrote