《芸術と憲法を考える連続講座》のポスターを学内に貼り歩いていた。学食横の掲示板に向かい、若干あたふたしながら作業していたところに、ちょうど中から出てきた美術4年の女子学生。「先生、わたし、無事卒業できることになりました。卒論も提出できて」と、普段あまり感情を表に現さない彼女が、小さな声で嬉しそうに教えてくれる。「へえ、それはよかった。おめでとう」と言うと、次にいきなり、「先生はどうしていつもそんなに大変そうに頑張ってるんですか?」ときょとんとした顔で訊いてくる。いつもひとり何かを考えている風の、マイペースの女の子。それでも去年は戦没画学生をテーマにしたぼくたちの集会に、足を運んでくれた。「え、ぼくそんなに大変そうに見える?」とすこし反省しつつ、ぼくは何か答えようとしたのだが、そんなぼくにはお構いなく、矢継ぎ早に投げられる次なる質問。「先生、ひとは何のために学ぶのでしょう?先生はなぜ学ぶんですか?」うわ、いきなり直球だ。
「うーん、それはずいぶんむつかしい質問だなあ。やっぱり世界にいろいろむつかしい問題があるなかで、どうすればその問題は解決出来るんだろう、自分はこの世界でどう生きていけばいいんだろうって答を探すために、人は学ぶんじゃないだろうか。それは机の上での勉強だけじゃない。頭で考えているだけじゃなく、答を探す過程で、人は行動もしていかなくちゃならない。行動しながら学び、学びながら考え、自分の生き方を探していく、その全体が、人にとっての生きるということだし、学ぶということなんだと思う。今、こうしてぼくが大変そうにポスター貼りをしているのだって、日本が再び戦争への道を繰り返そうとしているんじゃないかっていう思いに駆り立てられて、とてもじっとはしていられない、していちゃいけないという思いと、ではそれを解決するために、何を学び、どう行動すればいいんだろうと考えた末に、この連続講座をすることにしたわけなんだ。その行動にともなういろいろな苦労もすべてひっくるめてが、ぼくの学びであり、生きるってことだと思うんだ。迷いながらも、とりあえず動きながら、走りながら、学んでいこうってぼくは思っているよ。」
とっさのことで、こんなことを立ち話で話している自分に、内心苦笑する。「わたしまだ就職が決まらなくて、いま本屋さんと面接してるところなんです。講座、行けたら行きますね」と言って、彼女は歩いて行った。
近所の胃腸科に先週の検査結果をもらいに行った足で、9色のガーデンシクラメンをポット苗で買って帰り、寄せ植えにした。冷え切った冬の庭が、ぱっと明るくなる。胃は全然問題なし。(2017年12月10日、H.K.)