学生たちと行く無言館・俳句弾圧不忘の碑への旅


信州・上田の無言館(戦没画学生慰霊美術館)を若い友人たちと訪れることは、ぼくがかねてより温めていた計画だったが、手を挙げてくれた6人の若者たち(5人の大学生に、高校生が1人)と、やっとその旅が実現した。

 

無言館近くの槐多庵敷地に「俳句弾圧不忘の碑」を建てたフランス人マブソン・ローランさんと会うという、心躍る新たな目的が今年に入り加わったが、マブソンさんとともに碑の建立に関わった俳人・金子兜太さんが、碑の除幕式を目前にして亡くなるという悲しい出来事があったり、夭折した天才画家たちの作品を集めて、無言館とは分かちがたく結びつく存在だった、愛おしい信濃デッサン館が、急遽この3月15日で閉じられることになったという衝撃的な話を、電話口で窪島誠一郎さんから聞かされたりということが続き、複雑な思いが交錯するなかでの旅となった。

 

 

3月7日、上田駅からローカル線に乗る改札前で、長野から来たマブソンさんと合流し、その電車の中でも、また塩田町の駅を降り無言館へと向かう30分ほどの田舎道を歩く間にも、マブソンさんはさっき会ったばかりとはまるで思えない人なつこさで、立て板に水のように流暢な日本語で話し続ける。若者たちも、互いに初対面の人が多かったのに、マブソンさんのペースにみるみる巻き込まれ、早春の道に笑い声があふれる。

小高い山の上の無言館に着き、なかに一歩入ると、静まり返りひんやりと冷たい空気に満たされた空間に、70年以上前の学生たちが、恋人や家族や故郷の風景を描いた絵が、静かに並んでいる。さっきまでのはじけるような笑い声は止み、みなそれぞれに、絵を描いた若者たちのことに思いを巡らせながら、思い思いの時間を過ごす。

ぼくがこの画学生たちと向き合ったあの東京藝大での集会からも、もうすぐ2年になる。《画学生たちからの伝言》という集会のタイトルに、どうしても「憲法9条70年」というサブタイトルをつけないわけにはいかなかった。政府が再び戦争に向かい、なし崩し的にさまざまな法律を改変し出している昨今の情勢を考えると、「いま耳をすます」というタイトルも必要だった。「憲法9条70年《画学生たちからの伝言》いま耳をすます」。70年前の戦争で失われた若い命と、その一人一人に確かにあったかけがえのない人生や夢や希望を思い描きながら、あの時、無言館の絵と向き合い、学芸員にお願いしてガラスケースの遺品や日記を取り出してもらっては、集会に使うスライド用に撮影させてもらった。藝大に残る記録から、スライド用に一人一人入力した数百人の名前と専攻名、没年と死亡した場所。延々と続いた作業の記憶が、改めてよみがえる。この若者たちの命と引きかえに作られた憲法9条を、いま骨抜きにしようとする政府の企みを、絶対に許すわけにはいかない。

無言館を見終えて明るい外に出ると、山道をこちらに登ってくるマブソンさんが遠くに見えた。ぼくたちは再び合流して、信濃デッサン館のカフェで遅い昼食をとり、ほんとうにこれがもう見納めになるのかという信じられない思いで、デッサン館の作品たちとのしばしの別れを惜しんだ。

 

その後「俳句弾圧不忘の碑」と、その隣りの「檻の俳句館」を、マブソンさん自身に案内してもらった。季語にも五七五の定型にすらもこだわらない自由俳句という自由な表現を追求し、戦争への批判精神を込め作った句が咎められ、多くの俳人らが治安維持法違反のかどで逮捕され、過酷な拷問を受けた。その少なからぬ部分が、京大俳句などの雑誌に集う大学生たちだったというマブソンさんの話に、ぼくの中で、無言館の画学生たちと、弾圧された若い俳人たちが、一本の線となりつながる。日本の「レジスタンス俳句」に愛情を注ぎ、研究に打ち込んできたマブソンさんによる、ほとばしるような熱のこもった語り口に、全身を耳にして聞き入る若者たち。98歳で金子兜太さんが亡くなった今、この不忘の碑の前に、次の時代を生きる若者たちが立ち、マブソンさんの話に耳を傾けているという、この情景に、ぼくは深く胸を揺り動かされていた。ほんとうに素晴らしい時間だった。


槐多庵では受付の番をしていた窪島誠一郎さんとも会った。たまたま憲法特集での取材に来ていた信濃毎日新聞の記者から、若者たちがインタビューを受けた。窪島さんとともに全国に散らばる戦没学生の遺族を一軒一軒探して歩き、遺作を集めたというあの野見山暁治先生の特別展示も見ることができた。閉館時間を過ぎた槐多庵を追い出されるようにして、ぼくたちは窪島さんやマブソンさんと別れ、タクシーを待つ短い間、「檻の俳句館」入り口に置かれた平和の投句箱に、若者たち全員が平和への思いを俳句にしたためて投じ、この日の長いプログラムを終えた。


その夜、別所温泉の宿で夕食の膳を囲んでいた時、「投句箱に投函した句を、順番に教えっこしようよ」とぼくが冗談めかして提案したら、驚いたことにほんとうに全員が、誰一人悪びれることなく、自分の句を一句ずつ披露して、その句に込めた思いまでも語って聞かせてくれた。「こんなにいい話、録音してちゃんと記録しておきたいから、もう一度聞かせてよ」とこれまた冗談めかして言ったら、今度は逆回りにほんとうに全員がもう一度話し直してくれた。無言館の絵を詠んだ句。それを現代の自分たちが描く絵に重ねて眺めた句。アウシュヴィッツへの旅から帰ったばかりの学生は、その時の気持ちを詠んだ句を披露した。それぞれの句に対する感想や意見が自由に飛び交い、笑い声がはじけた。司会も式次第もなく、参加者全員が、誰に求められるわけでもなく、銘々の心に思ったことを伸びやかに語り合う、こんな素敵な平和集会は初めてだった。ぼく一人だけがうんうんうなっているうちにタクシーが来てしまい、紹介できる句が一つもなかったので、「川嶋さん、ずるいずるい」とみんなにはやし立てられた。

翌朝、別所温泉で土地の人が守り通した山本宣治の碑をみんなで見に行った。戦前、人々の自由な言論表現活動を弾圧した治安維持法に、最高刑死刑を導入する法改正がはかられようとした時、当時の帝国議会でただひとり反対演説を準備して、右翼に刺殺された山本宣治。「山宣独り孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には多くの大衆が支持しているから」という京都宇治に残る碑が有名だが、別所温泉の碑には、山宣の生物学者としての一面を物語る彼の座右の銘がラテン語で刻まれている。「人生は短く、科学は永い」。山宣の死を境とするように、その後、治安維持法は猛威を振るい、日本は戦争の坂道を転げ落ちていく。「無言館」「俳句弾圧不忘の碑」とあわせ、どうしてもこの碑はみんなに見て欲しかった。(2018年3月9日)

▲別所温泉・常楽寺の猫